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時津賢児コラム from france
2008年・稽古の指針の一つとして 2008.3
 
のっけから本題に入るようですが、自成道というのは「自ら成すことによって、自らを成す道」ですから完成形はなく、常に発展途上の道を歩んで行きたいといった志向性を持って生きようとすることだと思います。だから、極言すれば、武道でなくてもよいわけです。
例えば、「気功」というものがありますが、これは、ある方法を実践することによって自分の健康状態を高めたり、病気に打ち勝つ努力をしたり、生きる喜びを身体の中から作り出すこと。つまりよりよい自分を作るための方法だと私は考えています。ですから、これも「自ら成すことによって、自らを成す道」だということができます。
たいていの場合は、気功教室などで先生の指導を受けることから始まりますが、それでも「自分でやる」ということが基礎になっている。サークルによっては先生のカリスマ性に頼る向きもないとはいえませんが、信じるばかりの他力本願ではなく、やはり「自分でやる」という姿勢がないと成果は少ない。 自分の中の何かがよりよい形に変化するから病気が治ったり、健康状態が高まったりするのです。それは他人が作ってくれるのではない。自分でやるから効果がある。つまり、「自分が実践することによってよりよい自分作っていく」。そう考えるならば気功を実践するということも「自成の道」になると言えると思います。

いや、本来的には「自成の道」でなければ意味がないと私は思います。
武道でも何でも、上達するとか進歩するということは、拙い自分が少しでも増しな自分に変化する、つまり増しな自分に成っていくことだと私は思います。
話は飛びますが、今から十年ばかり前に木村達雄先生著の「透明な力」という本を読みました。何十回と読み直しているうちに本は随分傷んでしまいましたが、いろいろな書き込みをしているのでまだそのまま使っています。この本の中に書かれている「合気」というのは、武道を志す人間にとっては迂回することのできない課題だと思います。これまで毎日のように考えてきましたが、正直なところ私には未だ分かりません。
しかし、考えながら稽古し稽古しては考えるということを繰り返しているうちに、それなりの収穫はありました。その一端をここにご紹介します。ただし理屈が分かったつもりになっても、十分に稽古して身体を作らなければ技にはなりません。皆さんの稽古の指針の一になれば幸いです。

まず私にとっての自成道は打撃系の武道です
ある先生が「自分の突いた拳を相手に捕られような者は打撃系の武道などやめたがよい」、と言っておられるのを何かの本で読んだ記憶があります。それは「武道で使う突きというのは、本来捕られるものではない」ということを前提していると思います。自由に打ち合って戦う相手の攻撃を受けたり避けたりすることはできても、それを掴み捕ることは稀にはできるでしょうが、間違いなくやるには無理があります。ただし、戦いには色々な局面や状況があるので、相手から捕られた手を外す、相手の手を捕って逆に極める、締める、投げるなどといった様々な技や身体操作の稽古は必要です。同時に、そうした稽古をすることによって身体の武的な使い方を工夫したり磨くことができる。私はそうした観点で、捕り手、逆手、投げなどの稽古を取り入れています。

ここで、相手に手を捕られた状況を考えます。
手を力いっぱいにしっかりと押さえてもらう。

その場合、「相手の力を消す、無力化する」、「相手の力が入らなくする「、あるいは「ゼロ化する」というのは一体どういうことなのかと、私なりに考えてみました。その理が分からないと努力の仕様がない。だが、そうした「理」というのはどうも秘密らしく、説明してくれる人はいません。自分で考えるしかない。
これから説明することは、ごく簡単なことですが、これをはっきりと分かるためには結構時間がかかりました。

まず相手から両手首の辺りをしっかりと押さえてもらいます。
手を押える側からみた力関係は次のようになると思います。
「しっかりと押さえる」ということは、「相手を動かさない」ということ、そして「相手を動かさない」ということは、手を押さえる自分も動かないと言うこと。つまり自分の身体を剛体化することによって相手を固定するということです。

だから、「しっかりと押さえなさい」と言うと、ほとんどの人は自分の体を硬く固めて、相手の手を固定しようとします。実際に試してみてください。
ここで中学だったか高校だったかよく憶えていませんが、F=MxV2(この2は小さい数字でV の右肩)という公式を思い出して下さい。

力あるいは仕事量 F は M(質量) に V(速さ) の二乗 をかけたものに相当する
と言うことだったと思います。もう随分昔習ったのことなので間違いがあるかも知れませんが、大筋には間違いないと思います。
この図式によれば、相手を「しっかりと押さえる」ということは、「相手を押さえる自分が動かない」ことによって「相手を動かさない」ということ。
だから、手を押えている本人の  すなわち速さはゼロだということです。
上の公式によれば 速さがゼロであればFもゼロです。
力いっぱいに抑えてはいるけれど F はゼロです。

ところで、F は速さの二乗に比例して大きくなるわけだから、Fを大きくするためにはV(速さ) を大きくした方が効果的だということになります。
ところが外から見ると、抑える方も抑えられる方も動かない。つまり双方が剛体化している。
だから、双方ともF はゼロです。
では、この様に押えられた状態で手を楽に上げるにはどうしたらよいか?

押さえられている手に V、つまり「速さ」を作ればいいのです。
ところが手は固定されているから速さは出せません。速さが生じるには、動きが必要であり、動きが生まれるためには動くための空間が必要だが、手は固定されているから動くための空間はない。
だから手のスピードはゼロのまま。だから F は依然としてゼロのままです。
ここで行き詰まりになって、一所懸命の力比べになってしまいます。
普通はこの力比べで終わってしまいます。

この行き詰まりを越えて進むためには、ちょっと発想を変える必要があります。

手は固定されているのだから動かない。だから手にスピードを作ることはできない。
ならば、身体の別な箇所にスピードを作ることはできないだろうか?
一見動きようのない体勢の中に動きを作れる箇所を見つけたい。
どこが動くだろうか?
ここまで言えばすぐに気付くと思います。
手が動かなくても胴体は動きます。
動かないものが動くと言うことは、速さゼロの状態からある速さに達するということ、つまり加速が生じるということ。つまり、動くということはゼロの状態から加速現象が生じるということ。
だから胴体を動かし、そこに生じるエネルギーを手に連結することができれば、速さが生じるから F が大きくなるから手は上がるであろう。
そういう発想が出てきます。

しかし、ここで問題が二つ生じます。
一は、どのようにして胴体部を動かすか?
二は、胴体部に生じた力をどのようにして手までつなげるか? 胴体部がいくらよく動いても、手の先まで一体となって動かなければ、力の伝わりようはないわけです。
一の胴体部の開発は自成道では、矢山気功の小周天と大周天の基本功を基にしています。
詳しいことはセミナーの実践で確認してください。

ここでは要点だけ押えおきます。
矢山気功では、
1)振り子運動、2)鳥の型、3)亀の型、4)竜の型、そして5)熊の型
という5つの型で背骨を柔軟かつ強化する運動を行い、背骨から胴体を作っていき、それによって身体の中心線が自然に浮かび上がってきます。
こうして開発していく身体の中心線上に位置する5つのエネルギーの拠点をチャクラとし、これを色々なやり方で活性化します。(このためのいくつかの運動を思い出してください。)
次に、中心線の両側にサイド センターを開発します。(このためのいくつかの運動を思い出してください。)
それにクロス センターが加わり、これを段階的に練っていきます。

自成道では各チャクラをチョウツガイとして動かす訓練が加わります。

こうした訓練をやっていくうちに胴体部は自然に活性化し、練れていき、背中から動きを生み出すと言った感覚が次第に生まれてきます。こうした感覚が出てこない限り、「背中の筋肉をよく感じる」とか「動かす」ということはまず無理です。
それはあたかも、手がかりのまったくないすべすべとした壁を、手探りで登りなさいと言っているのと同じで、力の入れようがありません。すべすべした壁に凹凸を作り、手がかりを作ることができれば登ることができます。手がかりがないということは努力の仕様がないということです。何事でも方法論というのは、効果的な努力の仕様を示すものです。
何の訓練もしない普通の身体の人は、背中の様々な筋肉に意識を集めるということはまず無理です。だからそれ以上いくら説明しても、身体が分かってくれないので、この時点で実践面での伝達は空回りするでしょう。

われわれは体の深部の筋肉群を意識的に機能させることは中々できません。例えば背骨の周辺にある筋肉は大変強靭ですが、われわれはこれに直接指令を出すことは無理でしょう。実は横になって寝ていても、ちょっとしたことで緊張しているのですが、現実にはそうした感覚で体を動かす人はいません。この点に関しては色々の注意事項がありますが、これは実際にやる時に説明します。文章にするとややこしい感じになりますが、別に難しいことではありません。
但し、頭で分かったつもりになるのはやさしいけれど、できるようになることとは別問題です。われわれの目的はできるようになることです。
あまり細かいことは避けて進みます。

胴体部がかなり自由に動かせるようになったと仮定します。

そうすると次は、胴体部で生み出した強い力をどうやって手先まで伝えることができるか?
という問題がでてきます。
この力の連結に関しては、拙著「武道の力」の中で詳しく取り上げている「連鎖筋肉系」を思いだしてください。
連鎖筋肉系の開発は、いくら頭で理解しても実際に身体を使って訓練しない限りできません。「鉄牛耕地」や「四股蹴り」は連鎖筋肉系の開発に適しています。
前述の「透明な力」では佐川先生が24通りもの鍛錬を毎日されていたことが書いてあります。
この本に触発されて私も10年ほど前から色々な身体鍛錬法を工夫しながらやってみました。連鎖筋肉系というコンセプトはその過程で私が作ったものです。多種類の身体鍛錬を行うということは、様々な連鎖筋肉系を作りかつ強化するということだと私は理解し、そのように実践しています。


結論から言うと、「速く強く細かい動きを胴体部に作り、連鎖筋肉系によって手先まで一体となって作用させる」ことによって、一見すると動きようのない状況の中で「速さ」を生み出すことができる。私はこれを相手に触れた状態から打ち出す極短距離の打撃力と同じ原理でやります。
極短距離の打撃というのは手を動かして突くのではなく、肩甲骨、背骨、脚部などを結ぶ連鎖筋肉系を使います。
連鎖筋肉系を遣うことによって F=MxV2 という公式通りの現象がここに出てきます。
Vすなわち速さの二乗に応じてFが増大するのだから大変なものです。
これに対して、身体を剛体化して一所懸命押えている相手の方はV=O だからF=Oです。自分はVすなわち速さの二乗に比例する力を出せるのだから、両者の差は極めて大きくなります。

しかし、胴体部に「速さ」を作ると言っても、身体ができていなかったら私が何をいっているのか分かりようがないでしょう。そのために身体鍛錬をする必要がある。身体鍛錬といっても部分的に盛り上がった筋肉を寄せ集めるのではなく、長く連鎖的に機能する筋肉系を作る。そうでないと技としては使えない。いわゆるパワー トレーニングとは一味違った鍛錬になります。そのためにどうした訓練をすればよいか?
これまで一緒に稽古してきた人には、そのニュアンスは分かるのではないでしょうか?

連鎖筋肉系がうまく形成されていないと、胴体部の力を伝えることができない。
連鎖筋肉系は多様な鍛錬を長年かけて行うことによって、作られていくものです。私は空手や他のスポーツを通して昔からある程度の筋力鍛錬はやっていましたが、「鍛錬」と言うことを強く意識してやり始めたのは「透明な力」を読んでからだから、十年そこそこです。佐川先生は十年や二十年でできるものではないと言われていますから、私の鍛錬はまだ序の口です。それでもお陰で色々なことを私なりに発見することができました。
こういう本を書かれた木村達雄先生に敬意を表します。また、木村先生とは二度手紙のやり取りをしていただき、資料と御著書をお送りいただいて大変勉強になりました。心より感謝しています。

一度出版された物は、世の中の共有財産になるわけだから、誰がどのように使っても文句は言えません。但しそこには、物を読み書きする者の良識というものがあり、本を読むことによって分かったり教えられたことは、どこから学んだかをはっきりと示すべきでしょう。そうすれば後に次く研究者も助かります。私はそのような意識で物を書いています。

技術や思想の面で、完全な独創と言うことはない。どこかから、あるいは誰かから学んだことが元になっているはずです。独自に工夫して作ったと思っていることも、その元には必ず誰かから習ったり教わったりしたことが元にあるはずです。
ここで書いたことは「透明な力」を読んで「合気とは何か?」ということを、私なりに考えていく過程で見つけたことです。前にも述べたように、私には合気が何かは分からないけれど、こういうことを考えていく過程で自得するものがあったことは事実です。何かを理解し、それが自分でできるようになれば自得したことになる。つまり自分の技として何ごとかができるようになるということです。その内容が大切なのだと思っています。自得したことは自分のものですが、その裏にはやはり誰かのお陰というものがあります。

「手を捕られた瞬間に相手を崩す、倒す、逆を取る、あるいは飛ばす。」 私がある程度できるようになったのはこれだけで、これだけは自得できたと思います。まだでき始めたばかりですが、力の強い色々な人と手合わせして、これまでのところ成功しているので、大筋は間違っていないだろうと思います。
これは相手が思い切り力を入れてきた方がやり易い。理由は上に書いた通りです。私の場合は、こうした技は至近距離からの打撃の訓練とほぼ同じ類の身体の使い方でやっています。「透明な力」に述べられている合気とは違うものでしょうが、それを考えていく過程でできるようになったものです。
自成道というのは「自分を確立する道」で、私は武道というものをそのように捉えています。だから「透明な力」から戴いた「合気」というテーマは、私の自分の武道で生かすことができなければ意味がない。だから打撃系武道との連続線上で柔術を研究するという姿勢です。自分のよって立つところを失ったら武道などやる意味はないと思います。

私は80年台の中頃から「意拳」の研究と実践を主としてやってきたので、立禅が主体でした。90年代の後半から立禅と身体鍛錬を融合した稽古になり、稽古の内容ばかりでなく、身体感覚の面でも大きな変化がありました。これからも変化していくでしょう。

身体鍛錬をやっていく過程で気付いたことを一言。
筋力を使う鍛錬はできるだけリラックスしてやるべきだということ。
これはどういうことかというと、立禅をやっているうちに分かったことです。
色々なたち方がありますが、できるだけリラックスして立った状態を吟味します。あらゆる筋肉が完全に弛緩してしまったら倒れるはずだが、いくらリラックスしても倒れないということは、身体の深部で緊張している筋肉群があるからです。その深い部分の筋肉の働きは意識には上ってこないから、なかなか認識できない。立禅には色々の目的がありますが、そうした深層部の筋肉を活性化し鍛えることにもなると思います。もちろん色々な立ち方があり、きつい立ち方では表層の筋肉も使いますが、体の深い部位に感覚が届くかどうかと言うことがポイントの一つだと私は考えています。
前述の矢山気功は、身体の深い部位の感覚を開発するために大変有効です。

表層部の筋肉は意識的に使い易い。深層部の筋肉は逆になかなか意識的には使えない。
これは、打撃力を磨くときのポイントでもあります。
そうしたことに気をつけて、しっかり稽古してください。
第一回目のメッセージとします。
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