TOP時津賢児の想い > コラム from france
時津賢児コラム from france
ヨーロッパの空手熱はなぜ冷めたのか?  
 
ヨーロッパでは1980年代までは空手熱が高かったが、90年代になると低迷期に入り、90年代後半から急激に下降し始め、現在は一昔前とは比較にならないほど冷めてしまった。日本で月刊空手道などを見ると、そうした現実の情報は全くといってよいほど伝わっていないから、私のいうことは日本人の皆さんには奇異であるかも知れない。
私の体験を通して感じる事実を伝えようと思う。

今日、ヨーロッパのどの国に行っても空手の評判は余りよくない。空手をやっていると言うと尊敬されるなどというのは、空手も武道もよく知られていない国ならいざ知らず、ヨーロッパ先進国に限って言えば嘘である。空手の評判は決してよくないのである。一般的に見ると、貧しい国ほど空手の人気は高く、ガンガンやる空手でもまだ結構人気はあるが、先進国ではそうした空手は最早はやらず、空手全般が地に落ち始めている。

それは何故か?
理由は全て関連しているが、箇条書きにして捉えてみたい。

第一
ヨーロッパに来た日本人の師範の大半が、技術と精神の面で、長い展望をもって追求できる空手を伝えることができなかったということが第一の理由である。伝えることができなかったということは、そういう空手を彼ら自身が知らなかったということだ。知っていたが教えなかったというのではない。つまり、はっきり言えば、日本にそうした空手がなかったから、彼ら自身が学ぶことができなかったので、教えることができなかったということになる。

第二
ヨーロッパ人・日本人を問わず、空手をやる人に立派な人は少ないというネガテイブなイメージが一般的にできあがってしまった。

日本人の空手師範について言えば、30年、40年前だと日本から来たばかりだから、言葉は余りよくできなくても精神的な深さがあると買いかぶられる可能性が高かった。だが30年、40年もヨーロッパに住んでいれば、メッキははがれてしまい、どの程度の教養があるかは自然にわかってくる。現実に、住んでいる国の言葉が堪能な空手師範は極めて少ない。言葉がうまくできなければ、技と心の問題を細かく説明することはできない。然るに、そうした深さを求めているヨーロッパ人は多い。

第三
ヨーロッパに住む日本人の空手師範や、昇段審査や講習会の指導のために定期的に日本から来欧する師範の中には、生活のマナーが悪く、文化性の低さを感じさせる人もいた。そうしたことをヨーロッパ人は彼らの空手体験の中で観察している。

第四
この30年、40年の間に、ヨーロッパの空手レベルは向上し、武道についての認識も高まった。その基礎のうえで、日本人師範のレベルや人間性も客観的に観察されてきた。

第五
空手は身体に余りよくないばかりか、武術としてそれほど有効でもないと考える人がヨーロッパには増えた。つまり空手に対する幻滅感が定着した。

どうしてこうした状況が出てきたのだろうか?



体験から考える

私個人の体験を基に考えてみたい。
今から30年、40年前にヨーロッパに来た日本人の空手家は、現在54,5歳から70歳前後である。私などは若い年代に属する。
32年前フランスに来た当事、私は日本空手協会系の空手をやっており、私が目標とする日本人の空手家はヨーロッパには5人いた。いずれも私より10年ないしは20年近い先輩で、空手の実力は当代一流と見なされる方々であった。
だが5人のうち2人はすでに故人である。一人は10年ばかり前に50代前半で、もう一人はつい先ごろ65歳で亡くなった。若死にと言わねばならない。残る3人のうち2人はとうに空手のできない身体なっており、昔の面影はさらさらない。一人はびっこで足をひきずって歩き、もう一人は生きる屍のような状態だ。空手ができるのは5人のうち一人だけだが、この方も健康状態は余りよろしくないと聞いている。30年前に私が目標とした空手マン達はどこに行ってしまったのか?

彼らの下降状態はすでに10年以上も前から始まっていた。日本で有名なK師範は「私のピークは45歳で、それ以後はずっと下降し続けです」と私に話されたのを思い出す。こうした状況をヨーロッパの空手マンたちが見逃すはずがない。空手のイメージは早死、身体のハンデイのイメージにつながってしまう。平均寿命がますます延び、どのように生きればよいかが問題とされる今日、「太く短く」といった武道がはやるはずがない。

武道は人間の技である。人間は生まれて死ぬまでの時間の中で変化する。子供が成長し、青年となり、壮年期から老年期に入り老いて死ぬ。こうした時間の流れの中で高い武のレベルを追求しようとするならば、「どのように老いていくか」ということ自体が武の方法の中核となる。そう見ると、30年前に私の目標であった方々それを知らないで稽古続けていたばかりでなく、そうした不完全な武道を人に教えていたということになる。
そうした事実が空手の低迷という現実となって現れていると見ざるをえない。



二段階の身体能力

武の道が高い峰に連なるものであるならば、峰の頂に達するのに時間がかかる筈だ。短時間に登りきれるものではない。平均寿命の延びている現在、太く短くというやり方ではやっていけない。

人間の身体能力には二段階ある。

第一は、いわゆるスポーツ的身体能力で、これは20代の後半から早くも下降し始める。100メートル競走がいい例だ。30になれば必ず落ちていく。ボクシングでは技術の巧さでかなりのカバーはできるが、耐久力の面では確実に落ちていく。前述した空手師範のように45歳を過ぎたら、いくら技がうまくてもレベルは確実に低下していく。
これは第一次身体能力の運命だといって差し支えないだろう。この能力は生まれつき各人に備わって入る資質がもとで、身体の大きさのように個人差がある。競技スポーツは全般的にこうした資質をもとにしており、ある程度以上の才能がなければ努力だけではおっつかない。だが、前述したようにこの第一時身体能力の寿命は短い。20代の前半で100メートルを10秒台で走れた人も、30代では11秒から12秒台に落ち、よほど気をつけて訓練し続けないと40になると普通の人と大差なくなる。要するに、第一身体能力は10代から40代にかけて放物線状に沈んでいく。

かつて私が目標とした空手マン達は一人残らずこうして沈んでいった。彼らは第一次身体能力に依存する空手しか知らなかったからだ。特に、第一次身体能力を酷使し過ぎた人は五十歳を過ぎると文字通りがたがたの身体になってしまう。
こう考えると、第一次身体能力だけに依存するやり方だと、武の高い峰に到達する前に必ず息が切れてしまう。過去の歴史を眺めてみると、達人のレベルに達した人は何らかの方法で、第一次身体能力を超えたもの、第二次身体能力というべきものを掴み、これに依存することによって長い道を歩んでいることが分かる。

では第二次身体能力とはどのようなものだろうか?第二次身体能力の構造を明らかにすることは武術の方法の中核であり、本稿の最終テーマといってよい。この問題はおいおい顔を出し、その都度少しずつ明らかになっていくと思う。

再び近況報告に戻る。
年が明けた。今日は2004年1月2日だ。
昨日の元旦は日の出を拝することができた。地平の上に大きな太陽が顔を出し、空を赤々と染めて上っていく。二本の木刀を振りながら、今年の祈願を立てる。右手には雪をいただいたピレネー山脈があり、太陽が昇るにつれて雪山の様相が変わっていく。この自然の恵みに対する感謝の念がおのずから沸いてくる。

誕生日と元旦は襟を正して迎えねばならない。今日まで何をしてきたかを反省し、これから何をすべきかを考える日だ。これでいいのだろうか?根本的なエラーをしてはいないだろうか?人に対して正しい応答をしてきただろうか?自分のエゴに押されすぎてはいなかったか?これからやろうとしていることに対する姿勢は正しいだろうか?そういった諸々のことを反省させられる。

大晦日の前日、ピレネーのふもとに位置するサン・ベルナルド・ド・コマンジュという村にいった。今は小さな村だが、中世においてはこの地方の中心だったという。石を城壁のように積み重ねて作った教会が有名である。中世のヨーロッパは戦争と略奪に明け暮れ、農民は常に不安感を持って生きていた。特にスペインとの国境が近いこの地方は、侵略者にとっては格好の的であった。
この教会をみると、教会の建物自体が城壁の役目を果たしていたことが分かる。住民は教会を取り巻く壁の内側に避難していたのだ。教会の中の壁画はこの教会を作ったサン・ベルナルドという聖者のご利益がいかに高かったかを現している。
この村はかつてローマ帝国の管轄下にあった。劇場や大浴場を初めとする遺跡がその時代のローマ帝国の繁栄を物語り、当時の住民の家の跡もはっきりと残っている。

こうした石作りの文化は日本と違って、歴史の跡を生々しく後世に残す。今自分が立っているこの場所は、どんな人間がどんな気持ちをもって生きていたのだろう。その時々の人間は、ここで呼吸し、ここで喜び悲しんで生きた。彼らは彼らの「今」という瞬間を生き、その「今」は私たちが生きる「今」と同じように確実に手触りがあったはずだ。この地方を征服し、天下を我が物と思って生きたローマ人たちは、どんな気持ちでこの空間に生息しただろう。ローマが堕ち、キリスト教がヨーロッパに広がる。教会の中の壁画はこの住民達が侵略者をいかに恐れ、聖者に政治力と人望があったことを物語っている。私の立つこの空間はそういった諸々の人間の気持ちを包み込んでいる。遠い昔を折り込んだこの空間に、私もまた今というこの瞬間にここにおり、それもやがて過去になる。

時間とは何だろう?
そうした感慨に包まれて、再び新年の意識に戻る。

今、私は物置の中で毎日稽古している。それは少しも苦にならないばかりか、喜びに燃えている。何故ならこの物置はあと一月もすれば、立派な道場に変貌するという見通しがあるからだ。漸く時津流アカデミーの本部道場ができる。

一昨年から昨年にかけての一年間は、本部道場をイタリアに作ることを考えていろいろと検討した結果、機は熟していないと判断した。その半年後、ピレネーに近いこの地において明るく広がった見通しを持つことができ、住まいと道場をこの地に定めることになった。住んでいるだけで気持ちが明るく幸せな気分になってくるような土地だ。

イタリア滞在中、私は道場を持たなかった。アパート住まいだったので、毎朝、近くの小さな公園の路上で稽古した。日が昇ると人通りが多くなり、思うように稽古ができないので、日の出の前に稽古した。雨の日は小さなテラスが私の道場になった。人が見ていようといまいとどこでも稽古はできる。
公園は夜のうちは灯りが灯る。私はできるだけ灯りの届かない場所でやった。塵回収のトラックは早朝に回る。ある時、稽古していると、塵回収の仕事をする男が近寄ってきた。私が邪魔なのだろうと気を回して場所を変えようとした。すると駆け足でこちらにくる。見ると若い男だった。

「何をやっているのか?」
「体操だ」
「カンフーだろう?」
「まあそんなものだ」
「あなたはとても上手だ。俺も少しだけカンフーをやっているんだ・・・じゃあ、またそのうち」

そういって手を挙げ、その男は去っていった。
その後も、時折塵回収のトラックから私の稽古を眺める視線を感じた。

矢山式気功法からヒントを得て、人目に立たない立禅のやり方を工夫して、人通りのある路上で人を待つ時などはやった。チャクラを刺激且つ活性化する歩き方を工夫し、いつでも意識のスイッチを入れると、立禅に近い身体感覚を作れるようになった。大周天を元に工夫した私のエネルギー・ダンスの基本はこの時期に完成したと言える。

道場をなくし、道場外の稽古を余儀なくされたお陰で、私の稽古は日常生活そのものの中に根を張っていった。これは大きな収穫だった。今では町を歩きながらでもいつでもどこでも稽古できる。
それは前に述べた第二次身体能力または武道的身体能力を鍛える方法を見つけることができたからだ。これを鍛えないで長い武の道を歩むことはできない。一般のスポーツマンのやり方だと、60近い人間は息切れしてしまう。私は今年57歳を迎えることになる。武の方法というのは、停年退職に相当する年齢の人間が、そこから更に向上できるための方法である。そうでなければ「メソッド」などと呼ぶに値しない。人並み以上の身体能力があれば、がんがん鍛えさえすれば誰でも一定のレベル以上には行ける。但し、前に見たように45歳以上は保障できない。「太く短く」という人生でよければそれでもいい。然し45歳以上、そして停年の年齢以降も更に伸びていこうとするならば、一般的スポーツ以外の方法が必要になるのは必須である。

イタリアの9ヶ月は貴重な体験だった。その後この地方に移り、ピレネーの見える村で似たような生活を続けた。結局パリの道場を手放してから一年半の模索だったが、2004年の元旦でその時期を通過し、時津流アカデミーの本部道場の活動が始まる。そういった感慨を持って、皆さんに新年の挨拶を送ります。
戻る