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時津賢児コラム from france
自成道について  
 
私は最も有効な武の方法を求めて入る訳で、闇雲に型というものにこだわっているのではない。何故、型を求めたかと言うと、武の技と言うものはそれを徹底的に煮詰めていくと必然的に型化するものであり、武の方法もまた必然的に型化していくということが分かったからだ。これには註がいる。

武道によっては型を持たないことを表に出す方法論もある。例えば、太気拳やその源流である意拳などは型を持たないという。然しそれは厳密に言うと、中国武術でいう套路を持たないとは言っているのであり、型の稽古が中心になっているのだ。これは中国武術でいう套路と日本語の型というものを混同しているところに原因がある。套路というのは空手の型のように、一連の理想化された技の動作から成っている。太気拳も意拳もそういう意味では確かに型を用いないで、もっぱら立禅のようにある姿勢でただ立つことによって武的エッセンスを磨く。だが、ある一定の姿勢を取るということは、日本語では間違いなく型に入るのだ。日本語における型の概念は中国語の套路の概念よりも広いということを知るべきである。太気拳や意拳における立ち稽古は型に他ならない。座禅のようにただ座ることも一定の形があり、これも正しく型なのである。

このように心身の或る在り方や、エネルギーを求める方法というのは、一定の手順や形などがあり、そうした形態は正しく型の概念に当てはまる。型には静的なものと動的なものがあり、空手の型のように動的なものはむしろ珍しかったのだが、武術世界ではこうした動的なものを型と見なす傾向が定着し、それが中国武術の套路に相当するので型イコール套路という図式が生まれたのだ。

伝達可能な武の方法は必ず型化しているということを先ず押さえておきたい。私はそうした武の方法を求め、自分の稽古の内容を最も無駄なく整理していったら型になった。そのようにして現在の時点で体系付けたものを自成道の型として捉えている。自成道の型にはだから立禅も、いわゆる気功法も当然入っている。 

私は82年に西野流呼吸法に出会ったことを皮切りに、気功の分野に足を踏み入れた。その当たりのことは拙著に詳しく書いたのでここに書くには及ばない。その後、幾つかの中国気功の方法論を学びながら研究を続け、結果的にいうと矢山式気功法で自分の気功体験を纏めたという形になる。(『気の人間学』参照)この当たりのことを簡単にかつ具体的に書いてみよう。

人間の普通の動き方というのは限られている。例えば腕を伸ばしたまま上に上げようとすれば、肩の三角筋が緊張する。これに背中の筋肉の動きを加えることは中々難かしいが、それができれば腕を上げる動作が一味も二味も違ってき、力の質がまるで変わってくる。突きの動作も普通は腕と肩の力でやっているが、これに背中の筋肉と、さらに臀部、脚部の力を同時に加えることによって、普通では出ない力が出てくる。

武術の技というのは、一見して分からないこうした見えない部分の力を運用している。技と言うに足る動作には、普通では使わない体の部分が関わっているのだが、外からは見え難いために中々理解されない。このことを理解しておく必要がある。二十世紀初頭に空手が公開されて大衆化していく過程で、こうした一見して分からない動きというのは、どんどん単純に解釈され説明され、単純動作として実践されてきた。そのお陰で空手は今日のように大衆化されて発展してきたのだが、その反面、武的価値の高い細やかな体の使いは十分に伝わることはなかった。だから現在伝わっている型というのは、どの流派でも形骸化された要素が高くなっている。つまり形はあるが、どのように体の中を感じて、どのような部分をどのように動かすかという肝心な中身が欠落しているのだ。こうした形骸化の比重は大きな人数を抱えた流派ほど高いと言ってよい。

だから私は気功を基にしたエネルギー効果という面と、実際の戦いではどのように動かなければならないかという二つの面から、技の所作を吟味していった。それによって、そうした技の中を流れるべき身体感覚や、身体の深い部分の動かし方が次第に分かり、それを組手で使いながら応用面を吟味していくことによって自成道の型が生まれていった。
だから自成道で用いる型というのは、こうしたエネルギー効果を持つ動きと戦いの方法の二つから成っている。
戦いの方法には護身と組手の技があり、その内容が異なる。いわゆる伝統的な型というのは護身の技でできている。つまり相手がこう掴んできたり攻撃してきたら、こう受けてこう反撃するといった類が殆どで、それは組み手とは本来異なっている。だからそうした技をそのまま自由組み手に使おうとしても、無理がある。型が使えるか使えないかを議論する前に、この根本的な面を理解しておかないと余り意味はない。現代に伝わる伝統的な型の大半はひどくデフォルメされたものが多いので、その意味を掴むのがまず大変であり、こじつけが極めて多い。そして、仮に型の意味が分かったとしても、それは現代的な組み手の発想がない時代に作られた型だから、そのまま自由組手に応用することは中々できない。

こうした面を掘り下げることなく、後生大事に意味も分からない使いようもない型を大事にしていくことを私は止め、伝統型を自分の発想で使える型に組み立て直していった。然し、前にも言ったが、それには250以上に登る変形型の比較研究という基盤を基にしている訳で、無から作ったのではない。

ご承知の通り、自由組手の技というのはこちらから仕掛ける技と反撃する技があり、さらに戦略的な移動法や体のさばきが必要になり、こうしたものも煮詰めていくと型化する。自成道の型における技というのはそうした組み手を主体に捕らえ直し、組み立て変えたものである。技の面から言えば組手が巧くなるための型だといえる。
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